
先日、四代目 市川九團次さんが、うなぎ工房にお越しくださいました!
実は、歌舞伎とうなぎには江戸の頃から続く深い関係があるのをご存じでしょうか?
そんな歌舞伎とうなぎの関係や、江戸ならではの面白い文化についてなど、当日の撮影の様子や九團次さんとのエピソードとともにご紹介します。
四代目 市川九團次さんがうなぎ工房にやってきた
歌舞伎界でもユニークな経歴をお持ちの市川九團次さん
九團次さんといえば、歌舞伎界でも少しユニークな経歴をお持ちの方です。
もともとはサラリーマンとして働かれていましたが、そこから歌舞伎の世界へ飛び込み、役者の道を歩まれた「異色の転身ヒーロー」です。
その後、大スターの市川海老蔵さん(現在の市川團十郎さん)に見出されて入門されました。
現在は、海外公演や講演、ワークショップなどでも活躍され、歌舞伎の魅力をわかりやすく伝える存在として知られていらっしゃいます。まさに「歌舞伎を世界に紹介するナビゲーター」のような方です。




また、とても気さくなお人柄で、撮影当日も、うなぎ博士や工房スタッフと和やかにお話しをされ、うなぎのタレ談義に花を咲かせてくださいました。
ご実家がうなぎ屋さん
そんな九團次さんと、うなぎとのご縁。実は、ご実家がうなぎ屋さんをされていたとのこと!
このエピソードは、市川九團次さんのブログでもご紹介されています。

子供の頃から親しんできたうなぎの味。
やっぱり、うなぎのタレへの思い入れもひとしおのようです。
歌舞伎とうなぎの、深い関係

うなぎ飯(めし)の始まり
そういえば、歌舞伎とうなぎは、実は昔から深い関係があります。
例えば江戸の頃。
歌舞伎の興行主が「冷めたいうなぎはおいしくない」と考えて、熱々のご飯の入った丼と一緒に蒲焼を毎日のように届けさせていたことが「うなぎ飯(めし)」の始まりとも言われています。
撮影のなかでは、そんな歌舞伎と鰻にまつわる興味深いエピソードもご披露くださいました。
うなぎ博士の豆知識:江戸の観劇と、ごちそうだったうなぎ飯
うなぎ博士この「うなぎ飯」はどのようにして生まれたのでしょうか。
その背景には、歌舞伎のにぎわいと、“うなぎ好き”の工夫がありました。
『俗事百工起原(ぞくじひゃっこうきげん)』
うなぎ飯の始並に蒲焼の事、うなぎ飯の始は文化年中、堺町芝居金主 大久保今助より始る。
今助常に鰻を好み、飯毎に用ふれども百文より余分に用ひしことなし。いつも芝居へ取寄用ひし故、焼きさましに成りしをいとひて、今助の工夫にて大きなる丼に飯とうなぎを一処に入交ぜ、蓋をなして用ひしが至て風味よしとして皆人同じく用ひしが始まりなりと云ふ。
文化年間(1804~1818)、大久保今助という人物が関わったと伝えられています。
大のうなぎ好きだった今助は、芝居小屋でもよくうなぎを取り寄せていましたが、当時は蒲焼だけを持ち帰るのが一般的で、どうしても冷めてしまうのが難点でした。そこで考えられたのが、
温かいご飯と一緒に丼に入れるという工夫。ご飯の熱でうなぎがふっくらと温まり、タレもほどよく染み込む――
その美味しさが評判となり、ご飯とうなぎを一緒に提供する「うなぎ飯」は次第に広まっていったといわれています。
当時の歌舞伎小屋は、日の出から日の入りまで続く長丁場。
観劇の合間の食事も、大きな楽しみのひとつでした。大芝居と呼ばれた歌舞伎の良い席(桟敷席)は、現在価格で5~6万円、桟敷席は芝居茶屋を通じて席を取り、食事代も含まれた料金でした。芝居小屋で重箱に詰めた仕出しのかわりに、ご飯に蒲焼をのせて重箱で提供されるようになり、それがやがて「うな重」として広まっていったという説もあります。
二八蕎麦が16文(約480円)、お酒1合が12文(約360円)だったことを考えると、うなぎは100文(約3,000円)ほどとされ、やや贅沢なごちそうです。
江戸歌舞伎の文化、そして食事処としてのうなぎ屋。それまでのうなぎ店の主流は、うなぎ単体で短冊に切って串を打って焼いたものを、持ち帰りするが多く、ご飯と一緒に提供する店は少なかったようです。
こうして見てみると、歌舞伎とうなぎは、昔から切っても切れない関係にあります。歌舞伎役者の市川九團次さんがうなぎ工房に来てくださったのも、なんだか不思議なご縁を感じます。
江戸から続く、うなぎの文化。そんな背景を思いながら味わううなぎは、また格別かもしれません。
この二つの伝統が重なるご縁を大切に、
うなぎ工房では、ちょっと面白いことを企んでおります…!
どうぞ、お楽しみに。
\ ありがとうございました /
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また見てね











